SxSW2013旅行記 第1章 第1節

このSxSW旅行記は、2013年3月にアメリカ合衆国テキサス州オースティンにて行われた、世界有数の祭典であるSxSW(サウスバイ・サウス ウエスト)にOpenPoolが出展したもようを、OpenPoolとともにテキサスの大地を旅した田畑氏が描く、数回にわたる連載記事です。SxSWに 参加するとは一体どういうことなのか、その雰囲気を共有することができたら幸いです。


第一章 OpenPoolに飛び込んだ日のこと

― 劇は終わった。なぜそれでは、ここで誰か出る幕があるのか?
― それは、この男がこの難破で生きのびたからだ。

「白鯨」メルヴィル 田中西二郎訳

めっきり雨の降らなかった今年の梅雨が明けるころ、下川くん(OpenPool ディレクター)からFacebookでメッセージをもらった。「もしよければ、今回のSXSW旅行記を書いてくれませんか?」というのが彼のお願いだった。

僕は、特に断る理由もなかったので、それを二つ返事で快諾したのだが、それが今になって、あのときの写真をあらためて見返しながら、さて何を書いたものかと頭を捻っている。四ヶ月前の記憶を鮮明に思い出すことだけでも、結構難しい。その上、「その文才に期待してます」などと根拠のない期待を抱かれたものだから、困難は一層、困難として僕の前に立ちはだかっている。ともあれ、あのAustinの日々を僕なりの視点で書いてみることにしたい。読者の皆様には、是非寛容な気持ちでそれを見守って頂きたい次第である。

思えば不思議なことなのだが、僕はそもそも、OpenPoolのエンジニアでも何でもない。コンピューターのコードも書けなければ、エフェクトのデザインに画期的なアイデアを提示できるわけでもない。そんな僕がなぜOpenPoolのAustinでの日々を語る立場にあるのか、まずもって読者の皆様にはわからないだろう。冒頭に引用したのはメルヴィルの「白鯨」の最終幕の一説だが、OpenPoolにおける僕は、さながら捕鯨船の難破で生き延びた男イシュメルの如き立場なのである。「難破」というと、まるでOpenPoolが暗礁に乗り上げているような悪い印象を与えるかもしれないが、実際のところは、現在も順調にプロジェクトは進んでいる。あえて言うなら、SXSWでの大きな成功と同時に、プロジェクトの中で解決しなければならない多くの問題点が浮かび上がってきたということである。彼らは今も前向きにそうした問題に取り組んでいて、新たな前進を見せている。ただ、僕はもうその船には乗っていない。僕は自分の研究の関係で、来月にはフランスに渡る予定なのだ。

前置きが長くってしまったが、言いたかったことは、僕は最初から今に至るまで、本質的には常にOpenPoolの部外者であり続けたということだ。イシュメルがエイハブの捕鯨船に乗ったのが銛打ちのクィークェグと出会った偶然によるものなら、僕がOpenPoolにくっついてAustinへ行ったのもまた偶然だった。そもそもの発端は、OpenPoolが拠点とするLab-Caféに、僕が客の一人として何度か訪れていたことだ。このカフェは不思議な場所で、常に様々な学生や社会人が出入りしていて、その全体を知るのはGMである杉本くらいだろう。杉本と僕は、僕の高校の後輩を通じて数年前に知り合っている。彼とは何かと趣味が合うので、Lab-Caféで二人して酒を酌み交わしたことも何度かある。僕は当時、大学院博士課程の一学生で、毎晩のように徹夜で実験をしていたので、深夜のカフェで作業をしている杉本からふいにメールをもらっては、ちょっと気晴らしにLab-Caféを覗きに行ったのである。

この杉本がOpenPool のファウンダーなのであるが、昨年の冬、彼はOpenPoolにある人材を探していた。それは、SXSWの開催期間中、人員や資材の運搬、買出しなどで必要な車の運転手であった。現場では、恐らく徹夜の作業もあるだろう。人員を交代で休ませながら、作業は行われるだろう。よって、車はいつでも動かせる状態になければならない。つまり、ドライバーは不眠不休の待機を迫られる。帯同するエンジニアやデザイナーにその役割を兼務させるのはさすがに酷だ、誰か人を付けなければ―、と杉本は考えた。そして、僕に白羽の矢が立ったのである。

杉本が求めた「屈強なドライバー」の条件とは、一、車の運転に慣れていること、一、外国の道路でもすぐに順応して走れること(経験があれば尚良い)、一、不眠不休でも安定したパフォーマンスを発揮できること、一、メンタルが安定していること、だった。僕の個人的な事情として、バンド活動がある。詳細はここでは省くが、僕は毎月のように東京~関西を往復していた。移動手段は自分で車を運転するときもあれば、夜行バスのときもある。何にせよ、徹夜で大学の実験を済ませ、その足で遠征をし、帰ってきた足で再び実験に戻る僕の生活が、杉本的にはあり得ないくらい過酷なものに見えたらしい。

僕にとっても、杉本からの誘いは嬉しいものだった。なぜなら、音楽をやっている人間なら一度は行ってみたいのがSXSWだ。そこは、世界中から音楽が集まる場所だ。ここ数年では、僕のすぐ近くにいる人たちもどんどん出演のチャンスを得ている。本当は自分もバンドで参加できると一番良いのだが、そこにチャンスがあるのならどんな形であれ、現地をこの目で見て、自分の体でその熱気を体感したいと思っていたのである。ゆえに僕は、自らの肉体と精神を、Austinまでの往復の航空券代と最低限の寝食の保障に代えて売り払ったのである。そして、その瞬間から、捕鯨船の船員よろしくマルクス的労働者としての僕のOpenPoolへの奉仕が始まったのである。

とはいえ、僕には一抹の不安もあった。補足事項(杉本の口頭による)として、ドライバーも手が空いていればOpenPoolに関するプレゼンテーションを会場で行うと言われていたことだ。そもそもどういった形式のプレゼンなのか、何を話せばいいのか、僕は出発当日になっても具体的には知らされないままだった。実際には、展示場を訪れる客にOpenPoolのシステムや理念について簡単な説明をするだけの役割だったのだが、今思えば、SXSW出展に向けてぎりぎりのスケジュールで動いていたOpenPoolの中で、杉本にはまず気にすべきことがいくつもあって、僕の不安の解消はそのリストの一番下のほうにあったのだろう。結果的に、僕のOpenPoolの詳細に関する当初の無知は、それから起こるいろんな場面でOpenPoolに向けた観察眼の集中力を高めることになった。「自分に危険を与えるかもしれない漠然とした何か」に神経を尖らせるのは、エイハブ船長の下で幻の白鯨「モービィ・ディック」を追うことになったイシュメルの心境に相似形で重なっていた。

出発メンバーは、下川、杉本、僕の三人だけだった。予算も限られているので、まずは少数で現地入りして、活動のベースを固めるのが目的だった。羽田からの深夜便に乗るため、他のメンバーに見送られながら夜九時過ぎに都内にあるLab-Caféを出発した。僕から見ると、久しぶりに会った二人はどこか心が宙に浮いたようだった。それは、上の空というよりは、どちらかというとテンションがハイになっているのだが、それを相手に悟られまいと抑制しているという感じだった。想像するに、バンドが初めて海外遠征に行くときと似たような心境だったのかもしれない。そこには、日本という枠組みを出て評価されることへの期待と不安が入り混じっていただろう。もっとも、僕はまだ自分のバンドで海外へ行ったことはないのだが。

道中、二人はAustinに到着してからの段取りなどをずっと話し込んでいた。僕はというと、二人の邪魔をしても悪いなと思ったので、今回のアメリカ旅行のために買って持って来たデジタル一眼レフを鞄から取り出して、同行カメラマン気取りで気ままにシャッターを押しながらこの移動時間の暇を潰していた。僕の場合にも、旅行に付き物な妙な高揚感が体の奥を揺さぶっていた。そのおかげか、さして退屈を覚えることもないうちに羽田空港に到着した。空港では、あまり時間に余裕はなかったが、さしあたっての「最後の晩餐」だということで、後で出るはずの機内食のことも考えずに三人してカフェテリアの味噌ラーメンを食べた。

sxsw1-1
(羽田への道中、この光景はAustinに到着するまで続く)

このSxSW旅行記は、2013年3月にアメリカ合衆国テキサス州オースティンにて行われた、世界有数の祭典であるSxSW(サウスバイ・サウスウエスト)にOpenPoolが出展したもようを、OpenPoolとともにテキサスの大地を旅した田畑氏が描く、数回にわたる連載記事です。SxSWに参加するとは一体どういうことなのか、その雰囲気を共有することができたら幸いです。

— 第1章 第2節へ続く